よくわかんなくなったから、とりあえず書いてみた。

高校のときに、自分に向き合ったつもりだった。強くなったつもりだった。

 

ただ、分からない。

高校卒業から半年もたった今、紙切れ一枚に収まってしまう自分の人生に向き合いながら、自分がどう成長したのか、少しでも強くなれたのか、よく分からない。

 

去年の今頃、僕は精神的に相当参っていた。

何度か精神科に行ったほどだ。朝起きても、寝てもなにかに取り憑かれたようで、学校に行きたくはないが卒業も控え行くしか無い。笑顔で取り繕う毎日、生きている心地がしなかった。医者にもなにかの病気だと言ってほしかった、今の自分が自分の状態が普通じゃないというなにかが欲しかった。そんな状態でとうとう口に出してしまった、「死にたい」と。

 

自分に向き合って考えれば考える程、自分という存在が分からなかった。自分という存在捉えれば捉えるほど、他者の存在しかいない。まるで、誰かに認めてもらうためだけに毎日重苦しい息を吸って、笑顔を振りまいていた。そんな、自分を捉えれば捉えるほど、自分を嫌いになるのが目に見えてわかった。毎日毎日、自分を殺したかった。

 

 

そして今、また自分自身を捉えなす機会をが良くも悪くも来てしまった。大学に行かず、定職にもつかずの生活を半年間送ってきた。また、タチの悪いことに「浪人」という形ではなくなにもない状況で上京してきた。インターンを数社で行ってきたが、自分がどう貢献できたかというと、イマイチよく分っていない。

 

狭い世界(地理的、社会的)で生きてきた僕はまぁ、言葉通り「社会」に揉まれた。今まで、高校生という看板があったものの、今はただの「高卒」だ。何者でもない。いくら、志があったとしても周りには関係ない。冷たい視線や、嘲笑はかなり苦しかった。そもそも話を聞いてくれなかった人は数え切れないほどいる。何度も声を押し殺して泣いた。

同時に自分自身の価値がこれっぽっちもないのではないか、という問に何度も押しつぶされそうになった。確かに、周りを見渡してみれば自分よりも「想い」も「スキル」も高い人ばかりだ。挫折なんてものじゃない、根底からなにかが毎日毎日折られそうだった。なにも無いなりに「ハッタリ」だけが得意になったのかもしれない。

 

そんな僕でも、人にちゃんと向き合えることを知った。知ったというより、刻み込まれた。山形での中高生向けのイベント、ファシリテーターとして少ししか入れなかったが、関わったチームで本気で泣く子、僕へ感謝の言葉述べる子。そして、最後に泣きながら近づいてくる子がいた。そこ子から人に向き合う、責任というものも感じた

「僕は一歩踏み出したくて、ここに来た。けど、僕はここで何もできなかった。」

そう言った。良くも悪くも他人の人生の変わりたいという思いの瞬間にふれる重みを感じてしまった気がする。同じようなことで東京でも、正直かなり悩んだ。でも、その瞬間は幸せだった。自分を捉えれば捉えるほど、他者の幸せが自分を感じれる瞬間だったからかもしれない。矛盾はしているが。

 

 

まぁそんなこんなで私生活、恋愛、仕事、学業色々な変化あり半年間駆けて来た分、それぞれクソ悩んだ。そしてよくわかんなくなった。何を手に入れて、何を失ったんだろうか。いろんな、モヤモヤが渦巻いている。だから、今これを殴り書きしているのだけれど、相変わらず自己肯定感の低さの塊だなぁと。

自分なんかどうあがいても変わらないと思うけど、だけそそんな自分が嫌いで反抗するようにがむしゃらに動き続ける自分がいる。まぁ、またしても矛盾している。

 

そんなちぐはぐな自分で、他者を幸せに、笑顔になんかできるのだろうか。自分は幸せなのだろうか。誰かの、大切な人の何かになれるのだろうか。僕は、何者でどこへいきたいのだろうか。分からないことだらけだ。

【流れるように生きていたい】

 まず始めに今この文章をかいているとき、僕は東京で宿がないため羽田空港にいます。携帯の充電器とパソコンを忘れたために、絶望していた僕でしたが近くにいたフィリピン人の方と仲良くなった結果、充電器を譲って頂きました。助け合いって素晴らしい!(写真は拒否られた)

 そんなこんなで深夜に暇な僕は、友人に進められて18歳になって思う言の葉をダラダラと紡いでいこうと思います。

 

 

 【流れるように生きていきたい】

 

 自分は何者なのか、何者になりたいのか、どのような人生を送りたいのか。

誰もが人生で1回は向き合う課題であると思います。それと同時に多くの人が言葉を詰まらせる問いでもあると思います。その答えを求めるために、社会学などの様々な分野が研究され、書籍が出版されていますが統一した答えはありません。つまり、

 

              人生に「絶対」の答えはない

 

ということだと思います。しかし、現代における社会、学校教育では「学校での5教科を勉強し、センター試験で良い点数をより、いわゆる名門大学に入り、そこから大企業に入社し普通のサラリーマンになることが正解!」などというあたかも完璧にみえるような虚像が存在しています。しかし、先程も言った通り「人生には絶対の答えはない」のだと思います。

 

であれば、その答えのない問題に対してどう向き合っていくか。それは、

「正解のない人生に対して、正解を出さないまま向き合うこと」

だと思っています。

 

僕は、高校3年になるまでは自分のことなど全く考えたことがなく、幼い頃から刷り込まれた考えを持って「普通」の生活をできる程度に過ごしたいという漠然としたモノを持っていました。

しかし、高3になって突然焦り出すのです。今まで「普通」でいいと口を揃えていた先生方が、周りの環境が「未来を考えろ!」と突然言い始めるのです。もはや、ホラーです。ゾンビばりに襲ってきます。

まぁ、僕は親が教員であるため、自然とその背中を見て教員を目指しました。ですから、教育と興味のあったデザインと建築のいずれかを勉強できる場所を志望しました。しかし、なんとも言えない不信感というか、もやもやが僕から離れなくて大学に行くのをやめました。言ってしまえば

 「未来」という答えのなく不安定な問題に対して今決断することをやめました。

(それはいつか書きます。)

 

 そして今考えてみれば、教育もデザインも建築もそれを達成するための手段にすぎない、僕はそれに囚われ身動きが取れなくなっていたのです。
言ってしまえば僕自身のOSがない状態で、アプリを大量にぶち込もうとしてる状態とでもいいましょうか。古いOSのパソコンに最新版のアプリを入れようとしてるのと一緒で、まさにフリーズしてしまったのです。

僕は僕自身のOSをアップデートし続けていくために流れるように生きていきたいのです。世界には5000以上の言語があり、僕の感情とは反対の感情が渦巻いてるわけでして、、、

なにを言いたいかというと、本当に大切な事は、自分がしたいことを自分自身で知っていることです。ですが、それは意外に難しい…

 

この時代、様々な書籍やインフルエンサーから様々な意見や情報が入ってきます。しかし、それが「絶対」であるとは限りません。

あまりに誰かを崇拝にすることは、自分自身の持っている自由を失うことです。

 

予測不能な時代の幕はもう上がり、未来は誰にも分かりません。100年ばかりしかない人生を楽しむために未来を憂いすぎても、期待しすぎてもよくない。私が生きられるのは今この一瞬一瞬なのだから。未来を創造し進んでいくためにも、より良い今を作り楽しみ人々の、自分自身の充実を図るべきだと考えます。

そのためにも今目の前にある「2018年をどのような自分で、どのように過ごしたいか」を考えてみて欲しい。それは、あなたの、僕の大きな一歩になると思います。